昭和46年08月08日 朝の御理解



 御理解 第68節
 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」

 小さい音でも神には聞こえる。神様に通うということ、と思うただけの事が神様に心に通うておる。一寸した事が、行う事の上においても神様の心に通うておる。問題は神様の心に通わなければ、どんなに仰々しゅう祝詞を奉上させて頂いてもどんなに長々と御祈念をさせて頂いても、それはせんない事である。一寸私共が信心にならして貰う。履物を一寸揃える、信心になるである。
 昨晩、私はお風呂の中で上がらして頂く時に、家内が使います石鹸が、風呂場に散らかっておりましたから、私はその後に入って、石鹸を石鹸箱の中に入れて、そして私の石鹸を上げるところに上げた。ところがふっと、これはあの人が小さいので、ここにあげたら手が届かないと思うて、又下の方へ下ろした。それだけで、それが神様に通う。脱衣場の箱にかちっとおいさみがあった。そんなものですよ、信心は。
 どんなに一時間なら一時間御祈念したところで、それが神様に嘘言うようであったら、神様に通わない。どんなに小さい声でも、神様には聞こえるとおっしゃる。それはどんなに小さな行いであっても、度々皆さんがおいさみ頂かれる事はないでしょう。度々神様が受けたぞとご返事下さることはないでしょう。けれどもね、けれども神様が受けて下さるという事実は。私の日々の体験から申しあげることが出来る。
 例えば、家内が背が小さいから、こんなところにあげとったら取れないとこう思う、それをすっと下におろしてやっただけの事。簡単な事ですよ神様に通うと言う事は。あれがもう、ろくそうにあるのでこげなところに、おきちらしてというて、わざと足のとどかぬところにあげとこう、そういうような事ではね、だから神様に通わんのです。しかしそうい事がよくありますね。
 お互いの生活の中で、そこでです、そういう些細な事でも、私は先日私はお布団をきちっとしとかねば出来ませんのです。起きたら何か忙しい事があったら、それをきちっとしわも伸ばさずに出てきましたらね、布団がですね、こらこらというてから、呼んだような気がしたです私。布団が呼ぶはずがないですよね。けれども私共の段々高められていく心というものが、一寸落ちようとすると、心の中にとがめるとこういうのです。もうとがめて後髪を引かれるように。
 やはりそれをきちっと揃えなければ、前に進まれんという事になる。それは本当にふぞろくな事じゃ、ろくそうな事じゃ、それで全然心に引っ掛からん事じゃ、心の御信心によって、今日ここにある、身に徳を受けるという事になってこない。自分の言った事する事が、どんなに些細な事でも、神様がお聞き届け下さってあるのだ。神様が見ておいでになるのだという生き方が身についてこなければね、それに神まいりするに、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならんという事になってくる。
 そこんところを、疎かにしてお徳が受けられるわけがない。それはおかげは受けられましょう。お徳も受ける人がありますけどね、いわゆる片寄ったおかげ、片寄った徳になる。私が思うのにね、金光様の御信心は、足ろうたおかげ、足ろうたおかげ。お金は沢山儲かったけど、家庭の中がうまくいかん、人間関係がうまくいかん。ここんところはうまくいっとるけれども、体がいつも病弱で、健康な者の働きが出来ない。
 いや、出来ないなら良いけれども朝から晩まで、苦しい、苦しいというておらなければならないなら、足ろうたおかげじゃない。足ろうたおかげ頂かにゃならん。私がそういうふうに言うとですね、金光様の信心ちゃ、そげなおかげは受けられんと思い込んでおる信奉者すら沢山ありますよ。もう病気なら病気でもそうです、癌はやっぱり医者でなければ治しはきらんと思うとる。
 人間関係でも、こがしこもつれたら、誰か顔役の人でも頼まなければ、この問題は解決せん位思うとる。そげなことはない。おかげは受けられる。難しい事は人に頼んで、まあどうでもよかことは、神様にお願いするという人があります。私共が若い時分、のんきな父さんという唄が流行った。はは、のんきだねという唄。のんきな父さん、かやを逆さに吊るして、おやおや、このかやは天井がない、おまけにこのかや底がある。自分が逆さに吊るしとる事はわからん。
 私は今、お道の信奉者の中にはこういう人が沢山ありわせんかと思う。教祖金光大神が教えて下さる事を逆さまに受けとる。逆さまに頂いておる。そして金光様の信心じゃおかげは受けられん、お徳も受けられん、そげな事じゃない。おかげも限りなく受けられる。お徳も限りなくお徳に進んで行かれる道なんです。教祖様はそれを教えておられる。金光様の信心ちゃ、もうおやおや、徳は受けられない、しかもおまけにおかげも受けられないという人が、どの位あるかわからない。
 金光様の信者の中に。それでもやはり参らにゃ気色の悪かという風で、お参りしておるという人がある。どうでしょうか。のんきな父さんじゃないけどね、それでは、のんきな父さんじゃない、本気でです自分の言うておること、しておる事が、それは些細な事であっても思うことすらが。行う事は尚さらの事、信心になりさえすれば良いのだからこんな容易い事はない。
 ところが事実、ここんところこう思うと思うても思えないところが、自分の思うように心が動かないというところに問題があるという事。そこに修行がいるのです。そういう修行がね、どういう信心から思われるだろうか、私はこれは最近しきりに思う事。もう本当に、本当に思う事。世界中の立ち行きの事、世界の隅々に居る人間の立ち行きの事、喧嘩しながらでも良い、戦争しながらでも良い、けれどもそこに立ち行く道が開ける。その事によって開けてくる事。
 最近はもう、本当にもう、どれだけ数限りはなかろう、人間氏子の御霊の世界の事まで、それが切実に願わなければおられない。いつの間にこういう事になっただろうかと私は自分で思います。これはもう私のものになってしまうたような感じがする。私の生き方は、願いというても実感もない事を、願うたところで、天皇陛下の事を願うたり、皇后陛下の事を願うたりそれこそ。
 天長節に旗たてるとを忘れるごたるようでは、願うとる値打ちはなか、教団の事を願う、金光教の事を願う日本中の事を願う、金光教全体の事例えば願うというても、願いが真がなかったら、神に嘘言をいうのと同じだと言う事なのです。だから私は私の流儀ですけれども、本気で痛いなら痛い、痒いなら痒いと言う事を願えというのですよ。今金が足りんなら本当に金がなくて困っておりますと、赤裸々に願えというのである。
 そういう中から段々信心がお育て頂いて、そして先日申しました西郷の千代田さんじゃないけれども、近所におられる酒乱の方、もうどうにも手のつけられん人を、そんなに千代田さんが裕福にありなさるとは思われませんが、毎日お届けをさして頂いて、その方を願われた。おかげでそれこそ、ぴしやっと止まってしまっているのです。何十年間の酒乱だから私は、あんたの事をお願いししてやりよるとばいとは思わん。
 けれども毎日、毎日それこそ修羅道のような生活をしておった家庭がです、ことっともこのごろいわん。それは千代田さんの心の中に、その事を願わなければおられん心が育ったのである。それが段々大きくなって、私は最近世界の隅々の事を願わなければおられない。これは、私の実感なのです。しかも人間氏子だけの事じゃない。どれだけ沢山の御霊がどれだけの助かりを待っておるかわからん。それは願うたところで、それこそ大海でそれこそ小便まった位の事かもわからん。
 どの位の事かわからん位のことじゃけれども、その事を願わなければおられんのだ。と自分も不思議な位にです、それを思います。そこで信心の例えば思おうと思っても思えんのだ、実際は。あの人の事を願ってやりたいと思うけれどもね、願う実感が起こってこない。それじゃ神に嘘言をいうのも同然なんです。ね、大きな柏手を打つとか、大きな声で拝むとかいう事はそういう意味なのです。
 【】しい祝詞の中で世界の平和を願うといったところで、神に嘘言いよるような人がどの位おるかわからんと私は思います。それよりも神様に通う手立てとして、実感を赤裸々にお取次頂いて、願うがほんなこと、そこから信心の段々、お育てを頂いて、ああこんなことじゃいかん、本当に自分の信心は小さい、その小さい信心が、大きく育って行く事を願う信心になって行く そういう信心がいつの間に私の心の中に備わったか、備わったと思う程に感じられる最近では。
 しかも神様がね、私の願いを一々、合点しながら聞いて下さるような、心持ちがする。公害問題もそうである。公害、公害というていうけれども、そこまで人間が成長したという事。これは私一人じゃない、本当いうたたら、金光教の信奉者の全部が他の方達に困った、困ったはまかせといて、そこまで人類の進歩を遂げたという事を本当に御礼を申し上げられる教団人であらなければいけないと私は思う。それが祈れるように、願えるようになった事は嬉しい、自分はそう思う。
 そこでどういう信心をさせて頂いておったら、そう言う事が自然に願えるようになれたか、お礼を申し上げられるようになれたかという事。神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならんと言う事、えらいどころか、それがむしろ有難いと言う事、こんな雨の日に風の日に参ってこんでもよいのにと神様がおっしゃっても、やはり参らなければおられない。それこそ昨日の御理解の中もあったように、濡れておじゃれば尚可愛いという思いがこちらに通うてくる。
 今日のような誰もお参りのない、今日のような雨、嵐の日に濡れしぼれて参ってきておる。こげな日に参ってこんでもと、いうてもやはり神様は嬉しい。その神様の御喜びがこちらに返ってくる。だからむしろ、雨、風の日が楽しいのである。有難いのである。辛抱というのはやはり辛抱の徳という事になってくる。そこんところを繰替えさせて頂いとる中におかげが頂ける。
 昨日私、痒かったから掻こうとしよった、そしたらね、痒いという字に、桜の花がいっぱい咲いたところを頂いた。私はすぐ思うた。桜の花の信心より梅の花の信心をせよ。ははあ、こういうことが桜の花の信心だあと思うた。痛ければすぐさすってくれる。痒けれはすぐ掻いてくれる、成程、それもおかげです。桜の花の信心がいけんというのじゃなか、それもおかげである。けれども痛かろうけれども、痒かろうけれども、それをじっと生神金光大神と辛抱させて頂くところからね。
 その痛みがなくなってくる。痒みがなくなってくる。その痛い痒いをじっと辛抱させて頂いて、その痛い痒いを通して真のことがわからして頂く、真の信心が頂かしてもらう事が楽しい。そういう信心を私は、梅の花の信心と思う。この御理解もいろんな解釈が出来るものですね。今日頂いて成程そうだろうと思います。自分の願いが、今思うにも、成程させて頂きたいと思います。
 そしてそこにおかげを受けるという事も有難い。けれどもね、その難儀な事を通して、信心がわからして貰う、信心辛抱の徳を受けさして貰う、じっと辛抱する。蚊に例えば食われた、ぱちっと叩いて掻いた。成程気持ちはよい。それは気持ちはよいですよね。蚊がとまってるのをぱちっと叩いて血をいっぱい吸うとるのを殺す時、とても気持ちはよい。しかもそこを掻くととても気持ちがよい。極楽、ある意味では。痒かとこ掻いて貰う位気持ちの良いものはない。けれどもそれを、じっと辛抱する。
 そこに蚊も立ち行けばこっちも立ち行く。しかも段々、段々繰り返し頂いとる内に、免疫性ができてくる。蚊にかまれても痒くない、痛くないというおかげが頂かれる。それがお徳。雨が降るから、風が吹くからと、成程人生行路の中に雨の事もあれば、風の事もある。それこそ今が雨の真っ最中じゃろうか、濡れておるしるしいと思う時がある。それをですね、そこから早く楽になりたいじゃなくて、じっと辛抱する信心辛抱の徳というものを身につけていかねばいけん。
 私は信心でいうおかげというのは、本当はそこからなんです。金光大神がどうぞ信心しておかげを受けてくれよとおっしゃる。そういうおかげ。痛いのが治った、痒いのが治ったというようなおかげではなくて、その中を通してわからして頂く信心、辛抱そしてその辛抱から受けるとこの信心辛抱の徳というもの、そういう信心を、繰り返さして貰うとる内にです、いつの間にか自分がね、それこそ赤の他人の誰彼の事まで、世界中の事まで祈らなければおられない程しの心が育ってくる。
 そういう信心修行をさせて頂く内に育ってくる。願わにゃんと先生が仰ったら、そんなら、願うというのでは神に嘘言を言う様なもの、自ずと願わなければおられないもの、自ずとその事を人は、不平不足というその事柄に対して、御礼を申し上げなければおられない心が育ってくる。今日は私はね、足ろうたおかげを頂いて貰いたい。この68節からお互い足ろうたおかげを頂き、足ろうたおかげというとやはりまずは、何というても神徳、霊徳、人徳、健康の徳、財の徳この五つをね身につけなければならない。
 そういうおかげの頂ける道を金光大神は教えて下さる。そういうおかげの頂かれる道におりながら、金光教では、いわば御利益は受けられん、そげんいいながら、お徳もとうとう受けんなりにしまえた。のんきな父さんじゃないばってん、やれやれこれはおかしいぞ、この蚊帳には天井がない、しかもこの蚊帳に底がある。まともに吊りさえすれば、ちゃんと天井もある、中に入っとればわずらわしい思いは全然せんですむ。
 天地の親神様の蚊帳を引きめぐらせて頂いたら、そこの中には、只有難い事ばっかり、勿体ない事ばっかりなのであります。その有難い事、勿体ない事というのはね、結構けだらけという意味じゃないですよ お風呂にども入って、ああ極楽極楽という意味じゃないですよ。只今も申しますように、いわゆる雨が降るから、風が吹くからえらいと思うはならぬ、信心辛抱こそ、身に徳を受ける修行。
 そういう身に徳を受ける修行をさして頂くから、甲の人はああじゅつないと言いよるけれども、乙の人は有難い勿体ないというよるのだから、もう極楽でしょうが。天地の親神様に通ういわば、まともに吊せて頂かにゃ、逆さまに吊っとる様な感じがする。そしてまあ理屈だけは見事な事をいう。先日もある教会の大祭に参ってから、口語体のお祝詞を頂かして貰うて、ああ成程これなら神様だけでなくして人間も分ろうと思う。
 けれども、神様がそれを聞きとどけておられん証拠には、一つもごひれいも立たなければ人も助かっていないじゃないか。あれだけ見事なことをいうならば、それだけ神様が聞き届けて下さるならば、もちっと人が助からんならん。私どんが場合は、例えば祝詞は無言であっても、私が思うたことだけでも、これはよしにつけ、悪しきにつけです、神様にかようのです。そこでどうでも、願われる事は雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならん。
 五徳というのもは、火鉢の中にこうやって、差し込む、あの茶出しを掛けるのが五徳という。人間は五つの徳を受ける事がね、足ろうたおかげが受けられる、行き届いたおかげが受けられる。神徳、霊徳、人徳、それに健康の徳、それに財の徳、どうでしょうか。これだけ頂いたら、もうこれ以上はないでしょう。そげなおかげは頂かんでんとそういうおかげが頂ける道なんです。六十八節を本当に頂いたらその一節だけでおかげが頂かれるのである。だからその前提として。
 いわば、雨が降るから、風が吹くから、早う楽になりたいというのではなくて、その雨の中に、風の中に本当の意味においての、御神意をわからせて貰えとこういうのである。久留米の初代がおっしゃっておられる。福岡の吉木辰次郎先生ですね、福岡三代の先生です。もう先生がお体が悪くておられる時分の事ですから、もう御晩年の事、石橋先生どうでも、ひとつあなたの受けておられるお徳を私に下さいと、私が若いから、あなたのお徳をあっちこっちにお話してまわる。
 だからあなたのお徳を下さいと仰った。何べんもそれを仰った。たんびに眼を閉じて御御祈念をなさる。そして仰る事はどう言う事かというと、「そうじゃなあ、御神徳というのは神様の御信用じゃからなあ」と仰った。度々そうじゃったと述懐しとられます。神様の御信用なのです。そこでならば神様の御信用を頂かせて頂く為にいわゆる、一切合切がおかげと悟らして頂く所まで、おかげを頂かにゃいかん。いわゆるすべての事を、雨であろうが、風であろうがそれを神様の御働きとして頂かにゃいけん。
 どういう自分に分の悪い事であっても、それを神様の私に求めたもう、修行であると同時に、御事柄として頂かにゃいけん。そういう頂き方ができるなら神様が、信用して貰わんでんよいと私共がいっても、神様の方から信用なさるだろうと思うですね。神様の心に、ぴたっと添うて行くことになるのだから、だから話しはそれだけだけれども、そういう時に合掌して元気な心で、受けれると言うとこが、常日頃しっかり修行しよらにゃできんと言う事である。
 有難そうに、大祓いやら、心行やら上げても有難そうにいくらしておっても、それにおかげが伴うていないとするならば、その人の有難かとはほんなものじゃないと言う事。これがお徳じゃろうかと思われるように、おかげを自分の心に感じないならばそれは自分の信心が、まだ本当のものでないと悟らせて頂いて、おかげを頂かにゃいかん。それにはやはり、梅の花の信心せねばいけません。
 合楽に一番欠けておるのは辛抱力なのです。何とはなしに、私自身が桜の花のような信心だから、集まってくる人がやはり、同じような感じがする。だからそれがいけんのじゃないですよ。それこそ桜の花のような華やかなおかげは、誰でも頂きたいのだから、だから自分に欠けておる梅の花の信心というか辛抱力が足りないと言う所をです、ひとつ本気で歯を食いしばってでも、ここは辛抱しぬかんならんところは、辛抱しぬかして頂いて、辛抱の徳を受けて行かにゃいかん。
 雨が降るから風が吹くからというて、えらいと思うちゃならん。大儀と思うちゃならん。その辛抱こそが身に徳をうける修行なのだから。梅の香りを桜に持たせしだれ柳に咲かせたい。余り虫がよすぎるような願いだけれど、そういうおかげが受けられるのがお道の信心足ろうておる。為にはね桜の花のように潔いやはり華かな、それも良かろう。梅の花のような本気で、いよいよ信心辛抱させて貰う、じっと堪える。寒の中にじっと堪えて行く。あの辛抱深さが要る。
 信心の香りも馥郁として花が例えば三分咲きに咲く頃にはね、もう願わんでも、頼まんでも、うぐいすはやってくる。そしてものごとを本当に素直に、素直に見ると言う事。いわゆる、柳のように風にまかせる心、神様におまかせする心、そういう心から人は、さあ公害だ、困った事だというておるこの中にです、そのこと自体にです、ここまでおかげを受けておる事に、御礼がいえれる心が私は、素直な心からしか生まれんと思う。お礼を申し上げる時には、御礼を申し上げる。
 願うところは願うという信心にならなければならんと思いますね。六十八節、六十八節というのは、六というのはお徳とおっしゃる。禄を食うというでしょう。昔大名が千石取りとか一万石取りとか。禄というのは徳のと言う事、それにプラスする、いよいよ広がっていく、八は。六十八節というのはね。今私が申しますような事を本当にわかって、その事に本気で行じたら、もう限りなくお徳が受けていかれる。限りなく末広がりに広がっていくおかげなのです。
 六十八節という事にまで、私は今日思い至らして頂いた。ここんところ、おかげ頂かして貰うて、成程金光様の御信心ではこげな事は頂かれんという事は絶対ない。それこそ神徳、霊徳、人徳、健康の徳、物の徳、その為には五徳が火の中に差し込まれたっちゃじっとしてるように、これこそ今は、火の中じゃろうかという中に辛抱しぬかせて頂いて、お徳を身に受けて行かにゃいけん。それにはね、痒いからうろたえて掻くよりも、じっと見つめてみる信心、そこから例えば免疫性。
 私は昨日はある本を見よったら、それこそ世界の何とかという、子供達がね、毎日が貝か何かをとるのが仕事らしいですね。真っ裸で海の中に入って行く子供達のこれは仕事らしい。それでクラゲやらいろんなものが刺すでしょう。ところが免疫になっとるから、もう絶対それを苦痛に感じないと、子供でちゃそうですから、そこんところ辛抱しぬいたら、辛抱しぬいたら免疫が生まれてくる。
 人は悲しいと涙流しよるとに、こちらは有難いと涙流すようなおかげになってくるです苦しい事が苦しいと感じんようになってくる。それにはそこんところ辛抱しぬかなければ頂けんのです。それを私はお徳足ろうたおかげどうでしょうかね。万事万端にそれこそ神様が、見てござる聞いてござると思わにゃおられない程しに、あれがほしいなあと思いよったら、ちっとここに頂ける程しに行き届いたおかげの頂けるようになった。頂けるのです。金光様の御信心は。
 そういう道を金光大神は教えて下さったんです。それにのんきな父さんにばっかりなってる人が多いと。教えを逆さまに頂いて、間違えた頂き方をして、そしてからお徳は受けられん、おかげもしかと受けられんと言った様な事で一生終わったのじゃ神様が悲しみなさる。痒いから掻くのは桜の信心。痒いのをじっと辛抱するのが梅の花の信心。今日はいっちょ、こういうところからでもね、今日はひとつ取り組んで頂きたいと思います。
   どうぞ。